金運の福
「呉服」の語源になった神社 — 池田・呉服神社と織姫伝説
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着物や反物を扱う店を「呉服屋」と呼びます。でも考えてみると不思議です。呉服の「呉」は、三国志に出てくるあの中国の国名。なぜ日本の着物に、海の向こうの国の名前が付いているのでしょうか。
その答えと伝わる神社が、大阪府池田市にあります。阪急池田駅から歩いて3分、呉服神社(くれはじんじゃ)。「ごふく」ではなく「くれは」と読みます。祀られているのは、およそ1700年前に海を渡ってきたと伝わる一人の織姫です。
海を渡ってきた織姫たち
神社の公式由緒と池田市観光協会の資料は、こんな物語を伝えています。
応神天皇の時代(観光協会は応神天皇37年、西暦換算で306年とします)、天皇はすぐれた縫工女を求めて、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)という父子を呉の国へ遣わしました。父子は道が分からず高麗国に立ち寄り、案内人を得てようやく呉へたどり着きます。そして呉の王に願い出て、4人の織女——呉服(くれはとり)・穴織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)を譲り受け、日本へ連れ帰りました。
兄媛は九州の筑紫潟に留まり、残る三媛の船は摂津国・武庫の浦(いまの西宮あたり)に到着。そこから猪名川をさかのぼり、池田の「唐船が淵(からふねがふち)」と呼ばれる淵に着いたと伝わります。織姫たちはここに建てられた機殿に迎えられ、機織と裁縫の技を人々に伝えました。日本の衣服が季節や場に応じて豊かになっていく、その始まりの物語です。
街そのものが物語の舞台になっている
調べていて一番楽しかったのは、池田の街の地名が、まるごとこの伝説の舞台装置になっていることです。
織姫が糸を染めるために水を汲んだ井戸は「染殿井(そめどのい)」として満寿美町に残ります。猪名川で絹を洗い、川原に延べて乾かした場所は「絹延橋(きぬのべばし)」という橋の名になりました。織った絹を掛けて干したと伝わる「絹掛の松」、夜遅くまで機を織ったという「星の宮」。妹姫の名は「綾羽(あやは)」という町名になり、そして「呉服町」という町名も駅前に残っています。
「呉服(ごふく)」という言葉自体がこの呉服媛に由来する——「呉(くれ)の機織(はとり)」が「くれはとり」となり、絹布を呉服と呼ぶようになった、と観光協会や事典類は伝えています。語源には諸説ありうるので断定はしませんが、少なくとも池田の人々は千年以上、この街を織姫の街として語り継いできました。
姉妹で分かれた「下の宮」と「上の宮」
呉服媛は仁徳天皇76年に亡くなり、翌年、仁徳天皇がその遺徳を讃えて祀ったのが呉服神社の始まりと伝わります。御祭神は呉服大明神と仁徳天皇。そして興味深いことに、姉妹の織姫はいまも池田で別々に祀られています。姉・呉服媛は里の呉服神社——通称「下の宮さん」。妹・穴織媛は五月山のふもとの伊居太(いけだ)神社——通称「上の宮さん」。姉妹の宮が街の下と上で向かい合う配置です。
社殿は天正7年(1579年)、有岡城の戦いの戦火で焼失しましたが、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として本殿を再建。この本殿がいまも残ります。拝殿は昭和43年の建て替えで、正面のステンドグラスという神社には珍しい意匠が特徴です。
いまも「服の神様」であり続けている
呉服神社は現在も、織物・服飾関係の人々の信仰を集めています。アパレルや裁縫に関わる方のお参りが多く、織物をモチーフにした御守も授与されています。また明治33年にえびす社が境内に合祀されて以来、毎年1月9日から11日の「池田えびす」は、参道が歩行者天国になり露店が並ぶ北摂の冬の風物詩になっています。
服に関わる仕事をしている方はもちろん、「呉服ってそういう意味だったのか」と知ってから訪れると、駅から3分の小さな境内が、1700年分の物語の終着点に見えてくるはずです。近くには豊中の服部天神宮——こちらは「足の神様」——もあり、北摂の福めぐりとしてあわせて歩けます。
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参考・出典
- https://kureha-shrine.com/about/
- https://kureha-shrine.com/access/
- https://www.ikedashi-kanko.jp/spot/recommend-spot16
- https://www.ikedashi-kanko.jp/orihime
- https://osaka-info.jp/spot/kurehajinja/
- https://ja.wikipedia.org/wiki/呉服神社