← 福跡マップ(地図)へ
特集

神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶

2026-07-21 | 執筆・編集:福跡マップ編集部

まんがで読む

神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 1ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 2ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 3ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 4ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 5ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 6ページ目神仏習合とは — なぜお寺に鳥居?四天王寺の石鳥居に残る千年の記憶 まんが解説 7ページ目

まんがの内容は下の本文(出典つき)をもとに構成しています。

四天王寺の西門に立つと、目の前に大きな石の鳥居があります。お寺なのに、鳥居。この素朴な違和感の先には、「明治元年(1868年)の神仏分離まで、日本では千年以上、神と仏が一緒に祀られていた」という、あまり語られない歴史が横たわっています。神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれたその信仰の形を、大阪で実際に見られる痕跡からたどります。

神さまの前でお経を読んだ千年 — 神仏習合とは

神仏習合とは、日本固有の神への信仰と、外来の仏教とを融合・調和させることをいいます(デジタル大辞泉)。言葉だけ聞くと抽象的ですが、実態はかなり具体的でした。奈良時代、神社に付属する寺「神宮寺(じんぐうじ)」が建てられ始めます。文献の上では、715年に建てられたと伝わる越前(今の福井県)の気比神宮寺が最初とされ、763年の伊勢・多度神宮寺などが続きました(改訂新版 世界大百科事典)。

神宮寺では、社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶が神前でお経を読みました。神さまの前で、読経。今の感覚では奇妙に映りますが、当時はそこに理屈がありました。9世紀に芽生えたとされる「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」——神は、仏が世の人々を救うために姿を変えてこの世に現れたものだ、とする考え方です。たとえば八幡神の本地(もとの姿)は阿弥陀如来とされました。思想としての早い現れは貞観元年(859年)の記録に見えるとされ(山川日本史小辞典)、平安中期以降には各地の神社で本地仏が特定され、平安末期から鎌倉時代にかけて理論として発展していきます。神と仏は別々の存在ではなく、同じものの二つの現れ。だから神社に寺が建ち、僧侶が神に経を上げても、矛盾はどこにもなかったのです。

この形は、1868年の神仏分離まで1000年以上続きました。

明治元年三月、神と仏のあいだに線が引かれた

転機は慶応4年=明治元年(1868年)の3月です。神道の国教化を進める明治政府は、神社から仏教的な要素を取り除く一連の布告を出しました。国立公文書館の解説などによれば、3月17日にはまず神社に仕えていた僧侶(別当・社僧)の還俗が命じられ、28日には「神仏判然令」と呼ばれる布告が出ます。仏像を神体としている神社はこれを取り払うこと、本地仏や鰐口・梵鐘といった仏具も取り外すこと——内容はそういうものでした。

そしてこの神仏分離を契機に、各地で仏堂・仏像・経文を破壊・焼却する「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が起こります。比叡山麓・日吉山王社での破壊が知られ、混乱は政府の統制が及ばないまま1874年(明治7年)頃まで続いたとされます(日本大百科全書)。破壊だけではありません。京都の石清水八幡宮は、貞観元年(859年)に僧・行教が宇佐から八幡神を男山に迎えたと伝わる、僧が神を祀った習合の歴史そのものの神社ですが、明治の初めに「男山八幡宮」へ改称され、もとの名に戻ったのは大正7年(1918年)でした(同宮公式サイト)。国土交通省の多言語解説文データベースも、この宮の習合の歴史が1868年の神仏分離令まで1000年以上続いたと特記しています。どちらかが悪者だったという単純な話ではなく、国の形が根本から変わるなかで、千年続いた信仰の形も引き直された——そういう歴史として、この出来事は残っています。

四天王寺の石鳥居 — 「お寺の鳥居」の正体

では、現地へ行きましょう。

四天王寺は推古元年(593年)、聖徳太子が建てた「日本仏法最初の官寺」です。西門の石鳥居は、もとは木造で、永仁2年(1294年)に現在の石造になりました。寺内最古の建造物で、国の重要文化財です(昭和9年指定)。

調べていて意外だったのは、四天王寺の公式サイトがこの鳥居を「神仏習合の名残」とは説明していないことでした。公式の説明はこうです——鳥居はもともと聖地の結界を示す門として古代インド以来建てられてきたもので、神社に限ったものではない。つまり「お寺に鳥居があるのは変だ」という私たちの感覚のほうが、神と仏を分けた明治以降に生まれた、案外新しいものなのかもしれません。

鳥居の扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあります。ここは釈迦が説法する場所であり、極楽の東門の中心にあたる、という意味です。古来この鳥居は極楽の東門と信じられ、彼岸の中日には、鳥居の向こうに沈む夕陽を拝んで極楽浄土を思い描く「日想観(にっそうかん)」が今も行われています。鳥居が、浄土への門になる。神社の専有物という思い込みを一度外すと、同じ鳥居がまるで違って見えてきます。

もう一つ。今宮戎神社の公式由緒には、西暦600年、聖徳太子が四天王寺を建立するにあたり、その西方の守護神として祀られたと伝わる、とあります。寺を建てるとき、寺を守る神社をあわせて祀る。神と仏の近さは、大阪の街の配置そのものに刻まれているわけです。参詣の際は今宮戎神社や、境内の四天王寺 亀井堂の記事もあわせてどうぞ。

住吉大社で、消えた寺の痕跡を探す

もう一つの現場は住吉大社です。公式サイトの年表に、天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が住吉大神の霊告により住吉神宮寺を創建した、と記されています。神社の境内に、天皇の発願で建った寺。津守寺・荘厳浄土寺とともに「住吉三大寺」と呼ばれた存在でした(大阪市)。その伽藍は明治6年(1873年)、神仏分離に伴って取り壊されます。布告から5年が経っていました。分離は一夜の出来事ではなく、数年がかりで各地の景色を変えていったのです。

ただ、痕跡は今も見つけられます。境内の末社・招魂社の本殿は、実は神宮寺の護摩堂(1619年建立)を転用したもので、2010年に国の重要文化財に指定されました。指定名称は「住吉大社 末社招魂社本殿(旧護摩堂)」。今も境内で神さまを祀っているその建物こそ、かつて僧侶が護摩を焚いた仏堂だったのです。神宮寺の西塔にいたっては、明治初年に徳島県阿波市の切幡寺へ移築され、「切幡寺大塔」として重要文化財に指定され現存しています。住吉文華館の東には、神宮寺跡を示す顕彰碑も立っています。

社殿の並ぶ境内で、ここに三大寺の一つと呼ばれた伽藍があったと想像してみてください。石碑一つ、お堂一つから、消えた千年が静かに立ち上がってきます。

鳥居を見る目が変わる

奈良では、藤原氏の氏神である春日大社と、氏寺である興福寺が古くから一体の関係にありました。そして毎年1月2日には今も、興福寺の僧侶が春日大社の本殿前でお経を読む「社参式」が続いています(奈良新聞)。宮司が祝詞を上げ、僧侶が読経する。神と仏が寄り添っていた千年の記憶は、分離から150年あまり経った今も、こうして各地に形を残しています。

次に四天王寺の西門をくぐるとき、あの石鳥居は「お寺なのにあるもの」ではなく、「神と仏がまだ分かれていなかった時代から立ち続ける門」に見えるはずです。彼岸の中日、夕陽が鳥居の向こうに沈む時刻なら、なおさらに。

福跡マップで近くの神社を探す

参考・出典

あなたの住所には、どんな福が宿っているでしょうか。

あなたの住所の福の気配を測る →

本サイトは寺社・御神木等の由緒と信仰を根拠ラベル付きで紹介するものであり、ご利益・効果を保証するものではありません。 参拝の際はマナーを守り、各社寺の定めに従ってください。誤りのご指摘・削除依頼は運営までご連絡ください。