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江戸の結界説 — 天守台から寛永寺・神田明神・増上寺・日枝神社へ引いた線

江戸城の北東、鬼門の方角に寛永寺と神田明神。南西、裏鬼門の方角に増上寺と日枝神社。社寺をこう置いて江戸を守った、という見方があります。このページでは、それを「江戸の結界説」と呼びます。

ここでは、説に登場する社寺を、江戸城の天守台を中心に線で結びました。方位と距離はすべて緯度経度から計算しています。説が当たっているかどうかは書いていません。数字と記録を並べておきますので、地図の上で確かめてみてください。

線は中心(天守台)から各地点へ引いた直線で、道すじではありません。色のついた扇は、中心から見た北東(紫)と南西(赤茶)の45度で、鬼門・裏鬼門の範囲の数え方の一つです。点線は遠くの地点へ向かう線で、地図の外まで伸びています。

中心と各地点

  1. 中江戸城 天守台(皇居東御苑)中心本丸の天守の土台。寛永15年(1638)に完成した天守は明暦3年(1657)の大火で焼け、その後は建てられませんでした(宮内庁)。
  2. ①寛永寺 旧根本中堂の跡(上野公園の大噴水)約3.7km・30°寛永2年(1625)創建。寺は「江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地」に建てたと説明しています。点は、元禄11年(1698)から慶応4年(1868)まで根本中堂があった場所です。
  3. ②神田明神(神田神社)約1.9km・39°元和2年(1616)に現在地へ移りました。神社は現在地を「江戸城の表鬼門守護の場所」と説明しています。
  4. ③浅草寺 本堂約4.8km・52°推古天皇36年(628)の縁起を伝える寺。家康の入府後に祈願所となり、寺はその背景の一つに江戸城の鬼門に当たることを挙げています。
  5. ④増上寺 大殿約3.5km・189°明徳4年(1393)開山。慶長3年(1598)に現在の芝へ移りました。
  6. ⑤日枝神社(皇城の鎮)約2.0km・222°明暦の大火(1657)で社殿が焼けたあと、赤坂の溜池を望む現在地が社地となり、万治2年(1659)に社殿が完成しました。
  7. ⑥日光東照宮 御本社約120km・353°元和3年(1617)、家康を久能山から遷して祀りました。天守台から約120km離れています。

天守台から見た方位と距離

地点距離方位角方角
① 寛永寺 旧根本中堂の跡(上野公園の大噴水)約3.7km30°北東・丑
② 神田明神(神田神社)約1.9km39°北東・丑
③ 浅草寺 本堂約4.8km52°北東・寅
④ 増上寺 大殿約3.5km189°南・午
⑤ 日枝神社(皇城の鎮)約2.0km222°南西・未
⑥ 日光東照宮 御本社約120km353°北・子

算出方法: 各地点の緯度経度から、天守台を起点とした大円の距離と方位角を計算しています。方位角は真北を0°として時計回りに測った角度です(方位磁石が指す北とは数度ずれます)。方角は八方位と十二支の名前です。八方位は45°ずつ(北東なら22.5°から67.5°まで)、十二支は30°ずつ(丑なら15°から45°まで)に区切っています。この区切り方は鬼門の調べ方の扇と同じです。座標は、②神田明神と⑤日枝神社は福跡マップのスポットと同じ値(国土地理院の住所検索による代表点)、それ以外はオープンストリートマップに登録された建物・遺構の位置を小数5桁で読み取ったものです。寛永寺は、いまの根本中堂(明治12年に川越の喜多院から移築)ではなく、江戸時代の根本中堂があった上野公園の大噴水の位置を使っています。点の置き方で数十mは動くので、方位は±1〜2°の幅で見てください。

地図で確かめる手順

  1. 上の表で、①②③の方位角が北東の範囲(22.5°〜67.5°)に入っているか、④⑤が南西の範囲(202.5°〜247.5°)に入っているかを見てください。
  2. 自分の手で測るなら、鬼門の調べ方の地図を東京まで動かし、皇居東御苑の天守台を押します。北東と南西に扇が出るので、上野公園・神田明神・浅草寺、芝の増上寺・赤坂の日枝神社が、それぞれどちらの扇に入るかを見てください。 鬼門の調べ方を開く →
  3. 扇は45度(濃い色)と60度(点線)の2通りで描かれます。どちらを鬼門の範囲とするかは流派で分かれます。二つの線の近くにある地点は、数え方しだいで答えが変わる位置です。
  4. 中心の置き方でも数字は動きます。天守台ではなく、西の丸(いまの宮殿のあたり)を押して測り直すと、どの地点の方位がどれだけ変わるかを比べられます。
  5. ⑥日光東照宮は約120km先なので、地図を大きく引いてから見てください。天守台から見た方位は353°です。

寺社自身は「鬼門」と書いているか

寺社の公式の由緒・歴史のページを読み比べました(2026年9月28日に確認)。「鬼門」の語が出てくるのは、①寛永寺・②神田明神・③浅草寺の3つです。寛永寺は「江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に」建てたと書き、山号の東叡山は「東の比叡山」の意味だとしています。神田明神は、元和2年(1616)に移った現在地を「江戸城の表鬼門守護の場所」と書いています。

浅草寺の歴史紹介は、家康の入府後に祈願所に選ばれた背景として、江戸城の鬼門に当たること、天台宗の古刹であること、源氏一族の信仰を挙げ、「背景であろう」と推測の形で結んでいます。

一方、④増上寺・⑤日枝神社・⑥日光東照宮の由緒や歴史のページには、「鬼門」の語はありませんでした。日枝神社が書いているのは「城内鎮守の社」「皇城の鎮護」という言葉です。

江戸城の造営資料に描かれた配置

東京都立中央図書館が所蔵する「御本丸方位絵図」は、江戸城を中心に12の方位を示した絵図です。図書館の解説によると、鬼門に当たる丑寅(北東)には上野の寛永寺、裏鬼門に当たる未申(南西)には芝の増上寺など、江戸城を取り巻く寺社や見附(城門)が描かれています。

国の重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」646点のうちの1枚で、写図に色をつけたものです。解説には、大広間の上段の間や出入口にも方位が書き込まれていると書かれています。

数字で見ると

天守台から見ると、①寛永寺は30°、②神田明神は39°、③浅草寺は52°です。3つとも北東の45度の範囲(22.5°〜67.5°)に入ります。⑤日枝神社は222°で、南西の範囲の中です。

④増上寺は189°です。八方位では南、十二支では午にあたり、南西の45度(202.5°〜247.5°)にも、未申まで含めた60度(195°〜255°)にも入りません。絵図の上で未申に描かれている寺と、緯度経度で測った方角とのあいだには、このくらいの開きがあります。

もう一つ、②神田明神と⑤日枝神社を直線で結ぶと、天守台とその線との距離は約50mです。二つの社が現在地に移った年は、1616年と1659年で、43年離れています。

説はどこから語られてきたか

社寺の並びを線で読む本としては、将門ゆかりの神社がなぜ北斗七星の形に並んでいるのかを問うた加門七海『平将門は神になれたか』(ペヨトル工房、1993年。1996年に『平将門魔方陣』と改題して河出文庫)や、天海が日本の風水を使って江戸の町づくりをしたという見方をまとめた宮元健次『江戸の陰陽師―天海のランドスケープデザイン』(人文書院、2001年)があります。書名と内容はいずれも国立国会図書館の書誌によります。

「結界」という呼び名を誰が最初に使ったのかは、今回の調べでは確かめられませんでした。寺社の由緒、江戸城の造営資料の絵図、のちの本の見方が、どの順に重なってきたのかは、下の記事で詳しく追っています。

この線を掘り下げた記事

このページは配置と数字をまとめたものです。それぞれの社寺の由緒や、説がどこから来たのかは、下の記事で詳しく書いています。

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参考・出典

12件出典に基づいて掲載しています

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