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神社の教養

江戸の結界説を地図で確かめる — 鬼門と裏鬼門の社寺の方角

寺社自身が「江戸城の鬼門」と書いているのは寛永寺・神田明神・浅草寺です。増上寺と日枝神社の公式の由緒に鬼門の語はありません。天守台から測ると、北東の3つは鬼門の範囲に入り、日枝神社は裏鬼門の範囲、増上寺はほぼ真南にあります。

2026-09-30 | 執筆・編集:福跡マップ編集部

江戸城の北東、鬼門の方角に寛永寺と神田明神。南西、裏鬼門の方角に増上寺と日枝神社。社寺をこう置いて江戸を守った、という話を聞いたことがあるかもしれません。ここではこれを「江戸の結界説」と呼びます。

先に、調べて分かったことを書きます。寺社自身が「江戸城の鬼門」と書いているのは、寛永寺・神田明神・浅草寺の3つでした。増上寺と日枝神社の公式の由緒には、鬼門の語が出てきません。そして地図で方角を測ると、増上寺だけが裏鬼門の範囲から外れていました。

説が正しいかどうかは、このページでは決めません。記録と数字を順に並べます。地図と方位の表は、江戸の結界説の線のページにまとめました。

鬼門と裏鬼門は、どの範囲のことか

鬼門は艮(うしとら)、つまり北東の方角です。その反対の南西、坤(ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼びます。

どこからどこまでを北東と見るかは、数え方で変わります。八方位で45度ずつに分けるなら、北東は22.5度から67.5度まで。十二支の丑と寅をまるごと含めるなら、15度から75度までの60度になります。南西なら202.5度から247.5度、広くとって195度から255度です。

この違いは、あとで効いてきます。範囲の考え方は鬼門の調べ方で詳しく説明しています。

寺社自身は、何と書いているか

説に登場する社寺の公式サイトで、由緒や歴史のページを読み比べました(2026年9月28日に確認)。

社寺今の場所に来た年公式の説明に「鬼門」の語
寛永寺寛永2年(1625)創建あり
神田明神元和2年(1616)遷座あり
浅草寺推古天皇36年(628)の縁起あり(推測の形)
増上寺慶長3年(1598)移転なし
日枝神社万治2年(1659)社殿完成なし
日光東照宮元和3年(1617)鎮座なし

寛永寺は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈るため「江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地」に天海が建てた、と書いています。山号の東叡山は「東の比叡山」の意味で、京都の比叡山延暦寺に見立てた名前だそうです。

神田明神は、元和2年(1616)に「江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地」へ移ったと書いています。創建の地は、今の大手町の将門塚のあたりと伝えられています。

浅草寺の書き方は少し違います。家康が江戸に入ったあと、浅草寺は祈願所に定められました。その理由として、江戸城の鬼門に当たること、天台宗の古刹であること、源氏一族の信仰を挙げ、「選ばれた背景であろう」と結んでいます。寺の縁起は江戸城の築城よりはるかに古いので、鬼門に「置かれた」のではなく、鬼門にあった寺が「選ばれた」という書き方です。

増上寺の歴史のページには、明徳4年(1393)に開かれ、慶長3年(1598)に今の芝へ移ったことが書かれていますが、鬼門の語はありません。日枝神社が書いているのは「城内鎮守の社」「皇城の鎮護」という言葉で、こちらも鬼門の語はありませんでした。

江戸城の造営資料の絵図には、どう描かれているか

一方で、江戸城の造営にかかわる資料の中には、この配置を描いた絵図があります。

東京都立中央図書館が所蔵する「御本丸方位絵図」は、江戸城を中心に12の方位を示した絵図です。図書館の解説によると、鬼門に当たる丑寅(北東)には上野の寛永寺、裏鬼門に当たる未申(南西)には芝の増上寺が描かれ、ほかにも江戸城を取り巻く寺社や見附(城門)が並んでいます。

国の重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」646点のうちの1枚です。同じ資料の大広間の絵図には、将軍が座る上段の間や出入口にまで方位が書き込まれていて、図書館の解説は「各部屋についても方位が考慮されていたことがわかる」と書いています。

寺社の由緒に鬼門の語が無い増上寺も、この絵図の上では未申に描かれている、ということです。

天守台から測ると、どうなるか

では実際の方角はどうか。江戸城の天守台(皇居東御苑)を中心にして、各地点の方位角を緯度経度から計算しました。真北を0度として、時計回りに測った角度です。

地点天守台から見た方位距離
寛永寺(旧根本中堂の跡)約30度(北東・丑)約3.7km
神田明神約39度(北東・丑)約1.9km
浅草寺約52度(北東・寅)約4.8km
増上寺約189度(南・午)約3.5km
日枝神社約222度(南西・未)約2.0km
日光東照宮約353度(北・子)約120km

北東の3つは、45度の範囲にも60度の範囲にも入ります。日枝神社も南西の範囲の中です。

目を引くのは増上寺でした。約189度は、八方位でいえば南、十二支でいえば午にあたります。45度で数えても、60度で数えても、裏鬼門の範囲には入りません。絵図では未申に描かれている寺が、測るとほぼ真南にある。調べていていちばん意外だったのは、ここです。

もう一つ、神田明神と日枝神社を直線で結ぶと、その線と天守台との距離は約50mです。二つの社が今の場所に移った年は1616年と1659年で、43年の開きがあります。

なお寛永寺の点は、今の根本中堂ではなく、元禄11年(1698)から慶応4年(1868)まで根本中堂があった上野公園の大噴水の位置に置きました。今の根本中堂は明治12年に川越の喜多院から移築されたもので、場所が違います。

年代を並べてみる

社寺が今の場所にそろうまでの年を、順に並べます。

最初から最後まで、61年あります。天守は1657年に焼けたあと、天守台だけが築き直され、天守そのものは建てられませんでした。日枝神社が今の場所に落ち着いたのは、その大火の2年後です。

一つの計画で置かれたのか、半世紀のあいだに積み重なったのか。この年表だけでは、どちらとも言えません。

「結界説」はどこから語られてきたか

社寺の並びを線で読む本には、たとえば次の2冊があります。

加門七海『平将門は神になれたか』(ペヨトル工房、1993年)は、将門ゆかりの神社がなぜ北斗七星の形に並んでいるのかを問う本で、1996年に『平将門魔方陣』と改題して河出文庫に入りました。宮元健次『江戸の陰陽師―天海のランドスケープデザイン』(人文書院、2001年)は、天海が日本の風水を使って江戸の町づくりをした、という見方を一冊にまとめています。どちらも書名と内容は国立国会図書館の書誌によります。

ただ、「結界」という呼び名を誰が最初に使ったのかは、今回の調べでは確かめられませんでした。寺社の由緒、江戸城の造営資料の絵図、のちの本の見方が重なって、今の「江戸の結界説」になっている、というところまでが確かめられた範囲です。

自分の手で確かめるには

鬼門の調べ方の地図を東京まで動かし、皇居東御苑の天守台を押してみてください。北東と南西に扇が出ます。上野公園、神田明神、浅草寺、芝の増上寺、赤坂の日枝神社が、どちらの扇のどのあたりに入るかが見えます。

中心を天守台ではなく西の丸(今の宮殿のあたり)に置き直すと、数字がどう動くかも比べられます。どこを江戸城の中心と見るかで、増上寺の見え方も少し変わるはずです。

方位と距離の一覧は、江戸の結界説の線のページに置いてあります。数字は座標から毎回計算しているので、地点の位置を直せば表も一緒に直ります。


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参考・出典

11件出典に基づいて掲載しています

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