厄除け・方位の福
安倍晴明の聖地は7カ所ある — 大阪・阿倍野の社が「第二」と伝える理由
安倍晴明の子孫・土御門家は、宝暦4年(1754年)に晴明ゆかりの旧地を7カ所定めました。大阪の安倍晴明神社の説明では大阪の社が第二、京都の晴明神社が第五ですが、おおい町暦会館名義の説明では大阪の旧地(安倍王子神社)が第三で、番号は資料によって違います。両社の創建はどちらも寛弘4年(1007年)とされます。
安倍晴明を祀る神社といえば、京都の晴明神社でしょう。五芒星の社紋、一条戻橋のそば。全国的に有名です。
でも、大阪にもあります。
阿倍野区の安倍晴明神社。境内わずか180坪ほどの、小さなお宮です。

そして面白いのは、創建年が同じことでした。
| 京都 晴明神社 | 大阪 安倍晴明神社 | |
|---|---|---|
| 創建 | 寛弘4年(1007年) | 寛弘4年(1007年) |
| 何の跡か | 晴明公の屋敷跡 | 晴明公の生誕地 |
| 現在 | 独立した神社。全国区 | 阿倍王子神社の境外末社。静か |
晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に亡くなりました。その2年後に、生まれた場所と住んだ場所の両方に社ができたことになります。
大阪の社は、花山法皇が命じた
安倍晴明神社の公式サイトによれば、社に伝わる『晴明宮御社伝書』には、こう記されているそうです。
晴明公が亡くなったことを惜しまれた花山法皇が生誕地の阿倍野に晴明公をお祀りすることを命じ、亡くなって2年後の寛弘4年(1007)に完成したのが安倍晴明神社である

花山法皇です。晴明がその退位を予知したと伝わる、あの花山天皇。
出家して法皇となったその人が、晴明の死を惜しんで社を建てさせた。予言した相手が、予言者を祀ったわけです。
江戸時代に、聖地が7つ定められた
晴明の子孫は土御門(つちみかど)家を名乗り、代々陰陽頭(おんみょうのかみ)を務めました。公式サイトによれば、江戸時代の暦は幕府が作ったあと一旦朝廷に送られ、土御門家が暦注(吉凶)を加筆したうえで頒布されたそうです。
暦の吉凶は、晴明の子孫が書いていた。 これは知りませんでした。
安倍晴明神社の公式サイトによれば、その土御門家が、宝暦4年(1754年)の晴明公七百五十年祭にあたって「晴明霊社旧地之次第」を示し、聖地を7カ所定めました。公式サイトが挙げる一覧はこうです。
| 場所 | 何の地か | |
|---|---|---|
| ① | 奈良県 安倍文珠院 | 安倍家の発祥地 |
| ② | 大阪市 安倍晴明神社 | 晴明公の御生誕地 |
| ③ | 福井県 天社土御門神道本庁 | 戦国時代の安倍家の疎開地 |
| ④ | 大阪府和泉市 信太明神 | 母君・葛之葉姫ゆかりの地 |
| ⑤ | 京都市 晴明神社 | 晴明公の御屋敷跡 |
| ⑥ | 京都市(嵯峨) | 晴明公の御墓所 |
| ⑦ | 京都市東山区 遺迎院 | 御墓所 |
大阪の社の説明では、ここは「第二之旧跡也」と定められた社です。
ただ、番号は資料によって違います。福井県おおい町の暦会館名義のサイトは、同じ宝暦4年の七カ所をこう並べています。
- ① 和州安倍山[奈良県桜井市安倍山(安倍文殊院)]
- ② 泉州信太[大阪府和泉市葛の葉町(信太森葛葉稲荷神社)]
- ③ 摂津安倍野[大阪市阿倍野区(安倍王子神社)]
- ④ 若州名田庄[おおい町名田庄納田終(旧領地・館跡・土御門家墓所)]
- ⑤ 京葭屋町[上京区京葭屋町通今出川下る西側晴明神社前(伝・安倍晴明公居館址)]
- ⑥ 嵯峨寿寧院内[右京区嵯峨天龍寺角倉町(安倍晴明墓所)]
- ⑦ 伏見街道元遣迎院内[東山区本町(晴明塚址現在地不明)]
こちらでは第二は和泉の信太で、阿倍野は第三。しかも阿倍野の旧地を、安倍晴明神社ではなく安倍王子神社に当てています。京都の屋敷跡が⑤であることは、二つの資料で共通しています。
この記事では、番号を場所の順位とは受け取らずに読んでいきます。
七番目も名前が違います。安倍晴明神社の説明では東山区の「遺迎院」、暦会館名義の説明では「伏見街道元遣迎院内」で、晴明塚址の現在地は不明とされています。この記事では、いまある同じ名前の寺を晴明塚の場所としては案内しません。
どちらの資料でも、7カ所のうち2カ所が大阪府(阿倍野と和泉市)、1カ所が奈良。京都は3カ所。晴明の聖地は、京都だけのものではありませんでした。
母は、白狐だった
大阪の社にまつわる伝説も、京都とは毛色が違います。
公式サイトが紹介する「葛之葉子別れ」の伝説では、古代豪族・阿倍氏の子孫である安倍保名(あべのやすな)が阿倍野に生まれ、和泉国の信太明神の神使である葛之葉姫(本性は白狐)との間に生まれたのが晴明である、とされます。
母が狐。
公式サイトはさらに、白狐の母を持つ晴明は智慧の玉を譲り受け、竜宮を訪れて竜王から秘薬を授けられ、動物の言葉が聞き取れる不思議な能力を持ったと伝わる、と紹介しています。

聖地の一覧にある「信太明神」(安倍晴明神社の一覧では④)が母ゆかりの地とされるのは、この伝説によります。和泉市の信太の森が、その舞台です。
父は、文楽のスーパースターだった
境内には泰名稲荷神社(やすないなりじんじゃ)という朱鳥居の社があります。江戸時代から祀られてきました。
この社名は、伝説上の父・安倍保名にちなみます。公式サイトが明記しているのは、泰名稲荷神社が安倍保名の名を冠しているという由来です。
そして公式サイトはこう書いています。保名は文楽「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の主人公である、と。
「葛の葉子別れの段」で、保名は妻の正体が狐と知っても、こう言い放ちます。
狐を妻と持ったりと笑う人は笑いもせよ。われはちっとも恥しからず
公式サイトの評は、こうです。「安倍保名は文楽の世界のスーパースターでした。」
植村文楽軒の流れをくむ一座は難波神社の境内で興行し、文楽座はのちに御霊神社の境内へ移りました。大阪の神社と文楽の縁は、演目の中身にまで届いていたわけです。
明治に、陰陽道は禁止された
もう一つ、重い話が書かれていました。
明治新政府によって陰陽道が禁止されました
公式サイトによれば、その後70年余りを経て昭和17年4月に土御門神道同門会が結成され、終戦後の昭和21年5月に「天社土御門神道本庁」として再興が叶います。この活動には阿倍王子神社の宮司も、設立当時の主管者3名の1人として名を連ねました。
明治が神社と寺を切り離した話は神社とお寺、どっちに行けばいい?にありますが、同じ時期に陰陽道も禁じられていた。
千年続いた暦の吉凶が、法令で止められる。そして七十年後に、大阪の宮司たちの手で戻ってくる。
大阪の社が幕末に衰退し、大正10年(1921年)に阿倍王子神社の末社として復興したのも、この流れの中の出来事でした。現在の社殿は大正14年(1925年)のものです。
行くときに知っておくこと
阿倍野の安倍晴明神社は、境内約180坪ほどの小さなお宮です。境内全体が大阪市の保存樹林に指定されています。

公式サイトが明記している注意点を2つ。
- 阿倍王子神社の境外末社です。授与所が不在のときは、南に50mの阿倍王子神社で御朱印・授与品を頒布しています(葛之葉狐おみくじは除く)
- ご祈祷は阿倍王子神社のみの奉仕です
安倍晴明神社の社務所は11時から16時、不在のときに授与を受ける阿倍王子神社の社務所は9時から17時です(2026年10月2日に両社の公式サイトで確認)。
境内には江戸時代に寄進された「安倍晴明誕生地の碑」も残ります。
京都の2カ所は、それぞれ別の場所です。晴明神社(京都市上京区晴明町806)は、参拝が9時〜17時、授与所は16時30分までで、参拝料はありません。嵯峨の御墓所は京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町11にあり、晴明神社の公式サイトは「嵐山駅より徒歩約5分」と案内しています。
晴明神社の境内にある「一條戻橋」は、先代の橋で使われていた欄干の親柱を移して再現したものです。いまの一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、神社から南へ100メートルのところの堀川に架かっています。

京都の晴明神社と比べれば、規模は比べものになりません。それでも大阪の社の説明では、ここは七百五十年祭のときに「第二之旧跡」と定められた場所です。静かな住宅地の中の小さな社に、そう伝わる歴史がある。それだけで、私は行ってみたくなりました。
場所とデータは安倍晴明神社、京都は晴明神社のページにまとめています。

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安倍晴明神社の周りに、ほかにどんな福があるでしょうか。
安倍晴明神社のまわりをひらく →参考・出典
7件出典に基づいて掲載しています
- 安倍晴明神社について - 安倍晴明神社安倍晴明神社
abeseimeijinjya.jp - 晴明神社 〜陰陽師 安倍晴明公をお祀りする晴明神社〜
seimeijinja.jp - 安倍晴明神社 - 新しい授与品・星昊守(せいこうまもり)のお知らせ安倍晴明神社
abeseimeijinjya.jp - abeoujijinjya.jp
- tutimikado.net
- seimeijinja.jp
- seimeijinja.jp
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録しています。
- :本文の説明の文を4か所、削るか短く改めました。由緒・年代・出典・引用の内容は変えていません。
- :七カ所の番号を安倍晴明神社の説明だけで書き、「大阪が②で順番が上」「土御門家は、ここを第二に置いた」と断定していました。おおい町暦会館名義の説明では第二は和泉の信太、阿倍野は第三で安倍王子神社に当てています。二つの資料を並べ、「第二」は大阪の社の説明によると改め、番号を順位とは読まない書き方にしました。七番目の名前の違いと、京都の2カ所を訪ねる前の案内も書き足しました。
- :題名の「その「第二」が大阪・阿倍野だった」は、阿倍野が第二であると言い切る書き方でした。七カ所の番号は資料によって違い、阿倍野を第二とするのは大阪の安倍晴明神社の説明です。題名を「大阪・阿倍野の社が「第二」と伝える理由」に改めました。
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