神社の教養
文楽の劇場は、神社の境内にあった — 御霊神社
いまの国立文楽劇場の前身は、神社の境内にありました。
大阪・淀屋橋の御霊神社(ごりょうじんじゃ)。大阪観光局の公式サイトによれば、明治から大正15年(1926年)まで、この境内で人形浄瑠璃の「御霊文楽座」の興行が行われていました。
参道に小屋が立ち、太夫の声と三味線が鳴り、店や屋台が出て賑わう。それが四十年以上続いた場所です。
芦の茂る入江だった
社の始まりは、水辺です。
大阪観光局の公式サイトによれば、ここはもともと「圓江(つぶらえ)」と呼ばれる芦の茂る入江で、その地主神を祀ったのが起源とされます。
そして御霊神社の公式サイトは、創祀を『文徳天皇実録』に記された嘉祥三年(850年)にさかのぼるとし、八十嶋祭(やそしままつり)の祭場とされた圓神祠に始まる、と説明しています。千年以上の歴史があるということです。
八十嶋祭は、天皇の即位にともなって難波で行われた祭祀です。国土を生んだ神々に対する祭りで、大阪湾のほとりでなければ成立しません。同じ八十嶋祭は、梅田の露天神社の由緒にも登場します(「お初天神」は人の名前だった)。
大阪という土地は、国家の祭祀の場でもありました。 芦の入江に社があり、そこで即位の祭りが行われていた。いま淀屋橋のビル街に立っても、その光景は想像しにくいと思います。
秀吉が合祀して「御霊神社」になった
社名が今の形になったのは、比較的あとのことです。
大阪観光局の公式サイトによれば、1594年(文禄3年)、豊臣秀吉が小祠の乾八幡宮と源正霊社を合祀し、以降「御霊神社」と呼ばれるようになりました。
大坂城築城で社を動かしたのも秀吉なら、社を合わせて名前を変えたのも秀吉です。この街の寺社を追っていると、必ずこの人物に行き当たります。移された社、取り込まれた社、合わせられた社。それぞれの経緯は大坂城を建てるために動かされた社にまとめました。
船場の氏神
そして近世以降、この社は商いの町の氏神になります。
大阪観光局の公式サイトによれば、御霊神社は船場・中之島・京町堀・靱など、旧摂津国津村郷の産土神でした。
船場は、大阪の商業の中心です。薬の町・道修町も、その一角にあたります(張子の虎は疫病除けだった)。そこで働く商家の人々が、この社を氏神として仰いでいました。
なお産土圏に含まれる「靱(うつぼ)」は、いまの靱公園のあたりです。この地の近代の変転については、姉妹サイトの旧靱飛行場にまとめています。
なぜ神社の境内に劇場があったのか
本題に戻ります。文楽です。
現代の感覚では、神社の境内に興行小屋が常設されているのは奇妙に思えます。ですが、これは本来の姿に近いものです。
芸能はもともと神への奉納から始まりました。神楽も、能も、相撲も、社寺の場で行われるものでした。人が集まる場所であり、なおかつ「日常とは違う場」だからです。
御霊文楽座の場合、それが明治から大正にかけて、近代の興行として続いていたという点が特徴的です。奉納というより、木戸銭を取る商業興行に近い形になっていた。それでも場所は境内でした。
大正15年に境内での興行は終わり、その系譜が現在の国立文楽劇場につながっています。
芸能と寺社の距離
このサイトで記事を書いていると、芸能と寺社の近さに何度も出会います。
- 生國魂神社の境内には上方落語の始祖・米澤彦八の碑があり、いまも彦八まつりが開かれます(大坂城を建てるために動かされた社)
- 高津宮は古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台です(高津宮の縁切坂と相合坂)
- 露天神社は近松門左衛門「曽根崎心中」の舞台そのものです
- 難波八阪神社の獅子殿は、正月と夏祭りに芸能を奉納する舞台です(12メートルの獅子は、舞台だった)
落語、文楽、浄瑠璃、神楽。大阪の芸能は、寺社の境内から出てきています。
格式の高い社が、同時に人の集まる遊びの場でもあった。その両立が当たり前だった時代の名残が、いまも境内の碑や由緒に残っています。
いまは静かな境内です
現在の御霊神社は、オフィスビルに囲まれた静かな境内です。昼休みに人が通り抜けていく、船場の日常の一部になっています。
芦の入江で即位の祭りが行われ、秀吉が社を合わせ、商家の氏神になり、境内で文楽が上演され、いまはビル街の中にある。千年以上のあいだ、この場所の役割は変わり続けてきました。
場所とデータは御霊神社(ごりょうさん)のページにまとめています。
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参考・出典
- 御霊神社(大阪・淀屋橋)|船場の歴史と文楽ゆかりの「ごりょうさん」
osaka-info.jp - 御霊神社(ごりょうじんじゃ) Web Site [大阪・淀屋橋]
goryojinja.jp