現地レポ
止止呂支比賣命神社へ行ってきました — 読めない名前と、力士の手形と、若松御所
住吉めぐりの夕方、阪堺線の細井川駅の近くまで歩いて、この日最後から二番目の神社に着きました。夕方6時前です。
まず、名前が読めませんでした。

社号標には「式内 止止呂支比賣命神社」とあります。「止止呂支比賣命」。現地で見たときは本当に読み方が分からなくて、帰ってから調べました。「とどろきひめのみこと」神社。平安時代の延喜式に載る式内社で、地元では「若松神社」「若松さん」と呼ばれているそうです。なぜ若松なのかは、あとで分かります。

境内の由緒書きに、この読めない社名の由来が書かれていました。

御鎮座の年代は不詳ながら、平安時代の延喜式の神名帳に名が見える古い社で、御祭神は素盞嗚尊、稲田姫尊、そして社名の止止呂支比賣命。当時、境内の松林の中には清らかな清水の湧く轟池(とどろきいけ)があり、そこに「トドロキ」という橋が架かっていて、住吉大社の摂社「奥の院」として祀られていたそうです。「止止呂支」という不思議な字は、この池と橋の「とどろき」でした。
境内に、力士の手形
境内を歩いていて、目を引いたのがこれです。

力士の手形が並んだ碑。なんでお相撲さん?と思ったら、すぐ隣に答えがありました。

「高田川部屋」と掲げられた建物が、境内のすぐ横に建っています。大相撲の高田川部屋です。大阪場所のときは、このあたりが宿舎になるようです。神社の境内と相撲部屋が地続きになっている光景は、初めて見ました。
裏手に回ると、ものすごく立派な御神木が立っています。

夕暮れの逆光で、幹のシルエットがきれいでした。
「若松御所」— 名前の答えは、承久の乱の年
社殿の奥に、石組みと狛犬の並ぶ一角があり、その傍らに「若松御所」と題した碑が立っています。刻まれていた由来を要約すると、こうです。


- 鎌倉初期の承久3年(1221年)、後鳥羽院は討幕の軍を起こそうとして、熊野詣と称して、浪華住吉の豪族だった津守一族をはじめ大和・河内の兵を募った
- そのとき住吉大社の神主・津守経国は、後鳥羽院を迎えるため、若い松が多く植えられていたこの神社の境内に御所を造営したと伝えられる
- その年の2月に後鳥羽院が入御し、この社で国家の安泰と武運長久を祈った
- この「若松御所」の名から、当社は若松神社・若松さんと呼ばれるようになった
承久3年というのは、承久の乱の年です。教科書で読んだ「後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして敗れた」あの乱の直前に、上皇が熊野詣を装って兵を集めていた——その舞台のひとつがこの境内だった、と碑は伝えています。
いま境内に立っても、そんな緊迫の跡はどこにもありません。相撲部屋の建物があって、御神木が夕日を受けていて、静かな住宅街の神社です。でも「若松さん」という呼び名の中に、800年前の松と御所が残っている。名前が読めなかった神社で、この日いちばんの歴史に出会いました。
ちなみに住吉には、これとは別に南北朝時代の「住吉行宮跡」もあります。ひとつの土地に、時代の違う「御所」の記憶が二つ。このあたりは痕跡マップ側でも改めて書こうと思います。
「真住み吉し、住吉の国」
この日の道中では、「住吉のいわれとまちなみ」という銅板の説明板も見つけました。

奈良時代に編まれた摂津国風土記に、住吉の大神がこの地に至ったとき「これぞ、まことに住むべき国なり」——「真住み吉し、住吉の国」と言って神の地と定めた、という地名の由来が書かれているそうです。中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど賑わった熊野街道の要衝でもあった、と。
朝から一日歩いてきた「住吉」という名前そのものの答えに、日暮れどきに出会いました。
次の記事は、この日の締めくくり——夜の大阪護國神社、みたま祭りの話です。
あなたの街の近くにも、どんな福が眠っているか。→ 福跡マップで探してみる
参考・出典
- 止止呂支比賣命神社の現地碑文「若松御所」・現地由緒書き(2026-08-14 現地確認)