保曽井神社(曽井城の氏神)|どんな福が宿る場所か

四日市市曽井町の丘のふもとに鎮座する社。境内の由緒板によれば、かつては牛頭天王を祀り、東光山観音寺の守護神として、また曽井城の氏神として崇められてきたが、天正5年(1577)織田信長の兵火を恐れて現在地へ移ったと伝わります。明治3年に祭神は建速須佐之男命として祀られ、明治40年の一村一社の方針で境内社を合祀して社名を保曽井神社としました。
天明6年(1786)に村下川へ架けられた「そり橋」と、天保期に氏子から奉納された屋台提灯を宝物として伝えています。地域の郷土史によれば、そり橋は天明6年(1786)4月に架けられた石造の反橋(太鼓橋)で、伊勢参りに出かける時は道中の安全を祈ってこの橋を渡ってから出発したともいわれています。
時のながれ
- 応和年間(961〜964) — 由緒板は、三重郡における御厨の成立をこの頃とし、当社の創祀も御厨の成立と深い関わりがあると考えられると記す。
- 寛政年間(1789〜1801) — 「保曽井物語」に、主祭神として牛頭天王を祀り、現在地とは別の場所に鎮座していたと記されると由緒板は伝える。
- 元亀元年(1570) — 三重県神社庁の由緒は、寛政年間の「保曽井物語」に、曽井城(城主志村右ヱ門忠春)が元亀元年(一五七〇)八月に落城したと記されると紹介する。次の天正5年の遷座とは別の出来事として伝わる。
- 天正5年(1577) — 織田信長の兵火を恐れ、現在地に鎮座したと伝わる。
- 明治3年(1870) — 神仏習合を理由に牛頭天王の名の使用が禁じられ、建速須佐之男命として祀られるようになった。
- 明治40年(1907) — 国の一村一社の方針を受け、菅原道真を祀る社と山の神を祀る二社を合祀して、社名を保曽井神社とした。
現地の写真






近くの福
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このページで確かめたこと
現地確認
2026年8月12日に境内の由緒板を撮影し、曽井城の氏神とされたこと、天正5年(1577年)の移転、明治期の祭神名の変更と合祀を読み取りました。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
🌙 この土地の痕跡
同じ土地の、歴史の側の顔です。
- 曽井城跡(保曽井神社裏手の丘)社の裏手の丘に伝わる、曽井城の跡です。
参考・出典
3件出典に基づいて掲載しています
- 現地由緒板(保曽井神社境内)
保曽井神社(現地掲示・2026-08-12 撮影確認) - 保曽井神社
三重県神社庁教化委員会 - 郷土史 第十章 古墳・遺跡・遺物・構築物(曽井のそり橋)
神前地区
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録しています。
- :年表の「応和年間(960頃)」を「応和年間(961〜964)」に改めました。応和は961年から964年までの元号で、960年は天徳4年にあたるためです。
- :痕跡マップの「曽井城跡(保曽井神社裏手の丘)」へのリンクを加えました。由緒板が当社を氏神と記す曽井城の跡とされる、社の裏手の丘です。
- :参考・出典から神社データベースの民間サイトを外しました。紹介文と年表は境内の由緒板(2026年8月12日に撮影)に基づくため、書き換えていません。「このページで確かめたこと」から、そのサイトと由緒板を比べた記述を外しました。
この場所について
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