学問の福
「梅田」も「キタ」も、この社から始まった — 綱敷天神社
大阪の「梅田」と「キタ」。どちらも、ひとつの神社の由緒から生まれた地名です。
綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)。梅田のビル街の中にある、嵯峨天皇と菅原道真を祀る社です。
公式サイトの由緒には、この二つの地名の由来がはっきり書かれています。
まず「綱敷」から
社名の「綱敷」が、いちばん分かりやすい話です。
公式サイトによれば、昌泰四年(901年)、無実の罪で九州の大宰府へ送られる途中の菅原道真が、この地に立ち寄りました。
そこで今を盛りと咲いていた紅梅に目を留めます。仁徳天皇の御代に詠まれたという難波津の歌を思い起こし、その紅梅をゆっくり眺めるために——
船と陸とを繋ぐ艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて即席の座席とし、その上にお座りになられた
この故事から「綱敷」の号が興った、と記されています。
椅子がないから、船の綱をぐるぐる巻いて座布団にした。その行為が千年以上たっても社名として残っているわけです。
社殿は、すべて西を向いている
道真はこの地で、従者の白太夫こと度会春彦の一族を側に呼び、こう言い残したと伝えられます。
この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように
そして白江の姓を与え、自筆の御影と、座っていた綱を託して、九州へ旅立ちました。
公式サイトはこう記しています。当宮の社殿はすべて西向きに建てられており、これは道真公のお帰りをお待ちするためともいわれる、と。
大宰府は西です。千百年以上、社は西を向いて待っている。結局、道真が戻ることはありませんでした。
「梅田」は、埋め立てた田だった
さて、地名です。
白江氏は遺訓に従ってこの地に留まり、道真の没後、紅梅の樹下に小祠を営んで「梅塚天満宮」と号しました。これが現在の茶屋町にある御旅社の前身です。
そして公式サイトはこう書いています。その紅梅が「梅田」の梅の字の由来となったとも伝えられる、と。
もともとこの一帯は、埋め立てて田にしたことから「埋田(うめだ)」と呼ばれていました。そこへ、梅塚の「梅」という好字を当てて「梅田」と称されるようになった——という由来です。
埋めた田んぼが、梅の田になった。日本有数の繁華街の名前が、埋立地であることを今も音で残していることになります。
「キタ」は北野天神から
もう一つの地名も同じ由緒に出てきます。
正暦四年(993年)、冤罪の晴れた道真に朝廷から正一位が追贈され、この地にも改めて社殿が建てられました。神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、前者を御本社、後者を御旅社とします。
そして天神信仰の総本社である京都の北野天満宮にならい、「北野天神」とも称されるようになりました。
公式サイトによれば、この北野から当地の村名が「北野村」となり、それが現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています。
大阪の「キタ」と「ミナミ」。方角の呼び分けだと思っていましたが、少なくともキタのほうは、社の呼び名が村名になり、繁華街の総称になった、という順序でした。
嵯峨天皇を祀る、全国唯一の社
社の始まりは道真より古く、嵯峨天皇にさかのぼります。
公式サイトによれば、弘仁十三年(822年)、嵯峨天皇がこの地に行幸し、現在の御本社のある神山の地に頓宮を構えて一宿したのが由来です。
その後の承和十年(843年)、皇子の源融公が父帝を追悼して近隣の太融寺に七堂伽藍を建立した際、嵯峨天皇を祀る社殿を頓宮跡に創建し、天皇の御名をとって「神野太神宮」と号しました。
そして公式サイトは、嵯峨天皇を主祭神として祀る神社としては全国唯一とされる、と記しています。
また出てきた「一夜に七本の松」
由緒を読んでいて、思わず声が出た一節があります。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、この社は幾度も兵火に遭いました。そのたびに——
一夜にして七本の松が生い出て、その奇瑞を以って社殿を復興された
七本の松です。同じ話を、今日もう一つの社の由緒で読みました。大阪天満宮です。あちらは天暦三年(949年)、大将軍社の前に一夜で七本の松が生え、夜ごと梢が光ったので村上天皇が社を建てた、という創建譚でした。詳しくは一夜に七本の松が生えたに書いています。
同じ大阪の、同じ道真ゆかりの社で、同じ「一夜に七本の松」が語られている。偶然というより、天神信仰の中で共有されてきた型なのだと思います。松が生えることが、その土地に社を建てるべき理由になる。
事実かどうかではなく、その話がなぜ必要とされたか。由緒はそう読むと面白くなります。
菜の花畑だった梅田
もう一つ、いまの梅田からは想像しにくい記述があります。
公式サイトによれば、江戸時代のこの社の周辺は大阪市中への入り口にあたり、牛を休ませる牛宿や、旅人のための茶屋が見られました。そして春には、菜種油を採るために一面の菜の花畑が広がっていたそうです。
茶屋町という地名は、その茶屋から来ています。
明治になって大阪駅が開業すると、鄙びた村だったこの地は一気に都市化します。御旅社は現在の茶屋町へ移され、角田町の歯神社も当宮が管掌するようになりました。歯神社の話は「歯止め」が「歯痛止め」になったに書きました。
綱と御影は、焼け残った
最後に、戦災のことを。
公式サイトによれば、先の大戦で社殿や文献の多くは灰燼に帰しました。しかし——
道眞公のお座りになられた御神宝の御綱と御影は幸にも戦災を逃れ
社名の由来となったその綱が、いまも残っています。
埋田が梅田になり、北野がキタになり、菜の花畑が繁華街になった。景色は跡形もなく変わりましたが、道真が座ったとされる綱だけは、名前とともに残った。
場所とデータは綱敷天神社と綱敷天神社御旅社のページにまとめています。
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参考・出典
- 綱敷天神社 由緒
tunashiki.sakura.ne.jp