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縁・恋愛の福

高津宮の縁切坂と相合坂 — 旧都の跡を探して建てられた社

高津宮は、貞観8年(866年)に清和天皇の勅命で、仁徳天皇の難波高津宮の跡を探索して建てられたと公式サイトは記しています。境内の木札によれば、縁切坂は坂の形が離縁状の「三下り半」に似ていたことから、相合坂は明治後期に氏子の土地奉納でできた坂です。

2026-07-29 | 執筆・編集:福跡マップ編集部

高津宮は、「昔ここに宮があったはずだ」という理由で建てられた神社です。

公式サイトの御祭神・由緒のページによれば、貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により旧都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いて祀ったのが始まりとされています。

仁徳天皇が営んだとされる難波高津宮。その跡地を、四百年以上たった平安時代に探しに行った。そこに社を建てた。創建の経緯としては、かなり変わっています。

「探索して社地を定めた」という創建

普通、神社は何かがあった場所に建ちます。神が降りた岩、湧いた泉、倒れた木。理由が先にあって、社が後にできる。

高津宮はその順番が違います。すでに失われた宮の跡を、後の時代の人が探しに行った。見つけた(と判断した)場所に社を建てた。

考古学に近い動機です。ただし目的は発掘ではなく祭祀でした。仁徳天皇という、民のかまどの煙を見て税を免じたと伝わる天皇を祀るために、その宮の跡地でなければならなかった。

祀られているのは仁徳天皇だけではありません。公式サイトによれば本殿は三座で、本座に仁徳天皇、右座に長子の履中天皇と葦姫皇后、左座に神功皇后・応神天皇・仲哀天皇が祀られています。祖父母から父、そして自身と妻子まで、一族がまとめて並んでいる形です。

石段の脇に立つ社号標「高津宮」
石段の脇に立つ社号標「高津宮」

天正11年 — この社も、城のために動いた

もうひとつ、由緒のページに重要な一行があります。

天正十一年(1583年)、比売古曽社の現在地に遷座した。

理由は豊臣秀吉の大坂城築城です。旧都の跡を探して建てられた社が、新しい城のために、その跡地から動かされたことになります。

同じ年、同じ理由で動いた社がもう一つあります。生國魂神社です。詳しくは大坂城を建てるために動かされた社に書きました。

天正11年、上町台地の北端では、少なくとも二つの古社が場所を明け渡しています。城を建てるというのはそういうことでした。

仁徳天皇と「民のかまど」

祭神についても少し触れておきます。

大阪市中央区の公式ページは、仁徳天皇が高殿に昇り、人家から立ち上る炊事の煙が少ないことに気づいて諸税を停止し、困窮する庶民を救済したという逸話を紹介しています。同ページには、こう詠まれたとされる歌も引かれています。

高き屋に のぼりて見れば煙たつ 民のかまどは賑わいけり

その高殿があったとされるのが、難波高津宮です。つまり高津宮は、この逸話の現場に建てられた社ということになります。

境内の木札「高台之頌碑」。碑の冒頭に「高き屋に」の歌があると書かれている
境内の木札「高台之頌碑」。碑の冒頭に「高き屋に」の歌があると書かれている

同ページによれば、境内は古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台としても知られています。天皇を祀る格式の高い社でありながら、落語の題材が三つも出てくる。この距離感が大阪の寺社らしいところだと思います。

縁切坂と相合坂 — 境内の木札に、全部書いてありました

さて、今の高津宮を訪ねる人の多くが目当てにしているのは、境内西側の二つの坂です。

公式サイトの由緒のページにも大阪市中央区のページにも、坂の記述はありません。

ところが2026年7月30日に境内を訪ねたところ、二つの坂それぞれに、神社が立てた木札がありました。(社紋の桐と菊が入った、由緒書きと同じ様式のものです。)

以下は、その木札に書かれていた内容です。

西坂(縁切り坂)

明治初期まで坂の形状が三下り半になっていて俗に縁切り坂と呼ばれていた。今は諸々の悪縁を絶つ坂としてひそかに知られている。

(昔は離縁状を三下り半の形式で書いていた)

西坂(縁切り坂)の木札
西坂(縁切り坂)の木札

坂の形が、三下り半だった。

三下り半(三行半)は、江戸時代の離縁状の書式です。三行と半分で書くのが決まりでした。その形に坂が似ていたから、縁切り坂。

つまりこの名前は、恋愛の話から生まれたのではありません。地形と、離縁状の書式の語呂合わせでした。梅田の歯神社(洪水を「歯止め」した巨石が、語呂で「歯痛止め」になった)と、まったく同じ型です。

そして木札は「明治初期まで」と書いています。いまの坂は、もうその形をしていません。

西坂(縁切り坂)。上から見下ろした石段
西坂(縁切り坂)。上から見下ろした石段

相合坂(あいおいざか・縁むすびの坂)

明治後期、氏子の土地奉納により今のような坂ができた。 横から見ると二等辺三角形で男女が両方から同時に登り、頂点でピタリと出会うと相性が良いと云われている。

相合坂(縁むすびの坂)の木札
相合坂(縁むすびの坂)の木札

読みは「あいおいざか」でした。

そして、こちらにも年代が書かれています。明治後期に、氏子が土地を奉納して今の形になった。

千年の社に、百数十年の坂。「古く見えるものが、実は新しい」が、ここにもありました。信仰そのものは古くても、目に見える形は、その時代の人が与えたものです。

参拝の順路も、掲示されていました

もうひとつ、境内に手書きの掲示がありました。「高津宮良縁参拝順路」と題されています。

冒頭で良縁を「人生を輝かせる縁」と定義し、男女の縁だけでなく仕事の縁・友人の縁を含むと書いたうえで、順路が四段階で示されています。

すること
①神様にあいさつの後、祈願する
②諸々の悪縁をたつ坂を下り、心を清浄にする
③男性は南より、女性は北より上る
④再び神前に至り、感謝申し上げる

本殿・絵馬殿・高津の富亭・坂の位置関係を示した図まで添えられていました。

境内の手書きの掲示「高津宮良縁参拝順路」
境内の手書きの掲示「高津宮良縁参拝順路」

注意していただきたいのが②です。縁切坂は「下る」。下って、上る。

そして③の「男性は南より、女性は北より」。相合坂が二等辺三角形で、両端から登って頂点で出会う——という話の、具体的な運用がここで指定されています。

始まりと終わりが両方とも本殿、というのも大事なところです。坂だけ歩いて帰るのは、順路としては途中で抜けたことになります。

境内掲示に基づき、本殿から縁切坂・相合坂を通って本殿へ戻る参拝順路を整理した図です。
境内掲示に基づき、本殿から縁切坂・相合坂を通って本殿へ戻る参拝順路を整理した図です。

境内の木札と社務所の掲示

神社の由緒ページは祭神・創建・遷座を記すもので、境内の個々の坂やその作法は木札に書かれていました。

なお、境内には他にも木札が並んでいます。仁徳天皇の「高き屋に」の歌を冒頭に置いた高台之頌碑(1772年建立)、五代目桂文枝の碑(平成18年建立。文枝師匠は高津の富亭に平成12年から17年まで欠かさず出演し、最後の高座もここでした)。落語との縁が、石碑として境内に残っています。

参拝の時間についても、社務所の掲示がありました。開門は午前6時、神殿の扉が閉まるのが午後5時、閉門は日没時です。坂を歩くなら、日没までにお参りを済ませてください。

場所とデータは高津宮 相合坂・縁切坂と高津宮 献梅碑のページにまとめています。


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参考・出典

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